思考/備忘

本ブログの目的は、大要、過去現在の思考を記し自己を観察するという個人的なものです。

反転可能性テスト検証

仕事でバタバタしているうちに少し間が空いてしまったが、早速、反転可能性テストの当て嵌めをやってみたい。

さて、反転可能性テストであるが、これについての記述はどのテキストを参照すべきか。この点について少し悩んだが、井上達夫氏の法哲学の授業で使用されていると思われる「法という企て」を参照しようと思う。(東大のシラバスを参照した。)

正確性をできるだけ確保するため、該当箇所を下記に抜き出す。以下太字抜き出し。但し①等は私が便宜上つけた。

①反転させるべき「立場」は単に自他の環境条件(社会経済的地位だけでなく身体的特徴などの「外的」な主体属性を含む)だけでなく、自他の視点を構成する選考・理想・世界観などの主観的条件にも及びうる.

②公共的理由は様々な個人的理由を独立変数とする関数ではなく、個人的理由の使用を制約する原理である.

③公共的正当化の成否は現実的な合意調達力の関数ではない.

(「法という企て」井上達夫著、東京大学出版、P23からP25より)

さて、上記を一旦、井上氏の反転可能性テストの条件として理解する。※同書はなかなか難解なため見当違いな点を抜き出している可能性もあることは予めご容赦下さい。以下上記①から③を条件①等とよびます。

ここで、一般的に殺人は正義(正義概念)といえるかどうかをテストする。

 まず、通常、殺す側も自分が殺される側になるのは嫌であり、かつ、殺される側も殺されることを望むものでないことので、この場合、条件①をパスできない。

また、殺す側が自分が殺されることを受容していたとしても、殺される側は通常殺されることを望むわけではないから、この場合も、条件①をパスできない。

さて、問題は、殺す側が自分が殺されること受容していて、かつ、殺される側もこれを望んでいるというケースである。こんなケースが実際に存在するかはさておき、確率論上0ではないため検討を要する。

そこで、条件②から検討する。なぜなら、条件①は形式上パスするように思えるためである。

条件②は、要するに、普遍化可能といいうるためには個人的な理由は使えないという意と解されるが、何が個人的理由で何が個人的でないかは一義的に明らかではない。本問題を殺す者又は殺される者の主観を個人的なものと断じれば、条件②をパスできないことになる。

仮にパスしたと仮定して条件③を検討する。この条件は解釈が非常に困難なのだが、文脈からすると公共性があるといえるかどうか、要するに普遍性があるかどうかは多数決でなく、マトモな人(道理をわきまえた主体)に受容可能性があるかどうかで判断するというように読める。

この点からすると、私から見ても一般的に見ても本問題の設定はマトモな人とはいえないため、普遍化可能性がないというべきであると考え得る。従って、条件③をパスできないと思われる。

以上、殺人は正義か否かをテストしてみたが、井上氏の反転可能性テストは、かなり主観的な条件に左右するため不安定ではないかと思われる。

条件②は、理由の個人性の検討なのだが、何が個人的で何が個人的でないかが不明である。条件③と合わせて考えると、合意調達力つまり同意数、賛成票の数で判断するわけではなくーナチズムの問題、民主主義の暴走を考えると問題意識は妥当だがー道理をわきまえた主体の受容可能性で判断するとのことだが、一体それは誰なのかという問題が惹起する。更に、道理は正義ではないのかという疑問も提出される。私の理解が拙いばかりに誤読しているのであれば致し方がないが(寧ろこれを望む)、反転可能性テストはあまりにも儚いように思う。

リベラリズムの再興を願い、今後も氏のその他の書籍も読んでみたいと思う。また、ゴー宣道場の参加チケットに当選したので、話をする時間がありそうであったら、今週、直接聞いてみたい。